Macacus speciosus I. Geoffroy, 1826[5]
Inuus fuscatus Blyth, 1875[5]
Macacus fuscatus Blyth, 1875[5]
Macaca speciosus Palmer, 1913[5]
Innus speciosus japanensis Schweyer, 1909[5]
Pithecus fuscatus Elliot, 1913[5]
Lissodes fuscatus Sowerdy, 1943[5]
ニホンザル(Macaca fuscata)は、霊長目オナガザル科マカク属に分類される霊長類。
日本(本州、四国、九州および周辺の島嶼、屋久島)[8]。種子島[5][4]、茨城県では絶滅[7]。
ヒトを除いた霊長目の現生種では最も北(下北半島)まで分布する[5][8]。
体長オス53 - 60センチメートル、メス47 - 55センチメートル[4]。尾長オス7 - 11センチメートル、メス6 - 11センチメートル[8]。体重オス6 - 18キログラム、メス6 - 14キログラム[8]。東北地方や中部地方山岳部の個体群は、西日本の個体群よりも大型(例として志賀高原個体群は幸島個体群の倍近く体重がある)[8]。体毛は寒冷地では長く密に被われ、温暖地では短く薄く被われる傾向がある[5]。背面の毛衣は赤褐色や褐色、腹面の毛衣は灰色[5]。種小名fuscataは「暗色がかった」の意[6]。
顔や尻は裸出し赤い[4]。
幼獣は体毛が密に被われるが、成長に伴い密度は低くなる[5]。オスは犬歯が発達する[5]。
北限のサル(2011年5月)
本種は元々Macaca speciosusとして記載されていた[5][6]。後にM. speciosusが誤ってベニガオザルを指す学名とされ[6]、本種に対応する学名として後に記載されたMacaca fuscataが主に用いられるようになった[5]。先取権はM. speciosusにあるものの混乱を防ぐためM. speciosusを無効とする提案が1967年になされ、1970年に動物命名法国際審議会の強権によりM. fuscataが本種の学名として用いられている[5][6]。
本種の化石は中期更新世以降の地層から発見されている。最古の化石として、美祢市から本種のものと思われる歯の化石が発見されている[5][10]。この化石はトウヨウゾウやナウマンゾウと伴出しておりトウヨウゾウと同時期の化石であれば最古のものとなるが、一方でこれらは石灰岩の割れ目に堆積したもの(トウヨウゾウとナウマンゾウでは年代が異なるとされるため)でより新しい時代の化石である可能性もある[10]。袖ヶ浦市から本種の上腕骨を思われる化石が、ナウマンゾウと伴出した例がある[10]。
属内では陰茎の亀頭の形態などからアカゲザル、カニクイザル、タイワンザルに近縁と推定されfascicularisグループを形成する[5]。最も近縁なのはアカゲザルで500,000年前に分岐したと推定されている[7]。
基亜種と亜種ヤクシマザルは170,000 - 180,000年前に分岐したと推定されている[7]。ミトコンドリアDNAの分子系統解析では、主に近畿地方と中国地方を境界として2系統に分かれる。
常緑広葉樹林や落葉広葉樹林に生息する[4]。地表でも樹上でも活動する[4]。昼行性だが[4]、積雪地帯では吹雪の時は日中でも活動しない[7]。群れは1 - 80平方キロメートルの行動圏内で生活する[8]。群れは1 - 80平方キロメートルの行動圏内で生活する[8]。行動圏は常緑広葉樹林では狭く落葉広葉樹林内では広くなる傾向があり[4][8]、照葉樹林では1頭あたり1.4 - 6.4ヘクタールだが落葉樹林では1頭あたり9 - 79ヘクタール[5]。複数の異性が含まれる十数頭から100頭以上の群れ(亜種ヤクシマザルはほぼ50頭以下)を形成して生活する[4]。群れは母系集団でオスは生後3 - 8年で産まれた群れから独立し、近くにある別の群れに入ったり遠距離移動を行うと推定されている[5]。他の群れとの関係は地域変異があると推定されており、例として屋久島の個体群は群れの間で優劣関係があり群れ同士が遭遇すると争うが、白山の個体群は群れ同士が避けあい時に混ざることもあるという報告例がある[7]。
主に果実を食べるが、植物の葉、花、種子、キノコ、卵、昆虫なども食べる[5]。京都府の嵐山では192種の食物を食べていたという報告例がある[5][7]。亜種ヤクシマザルはカエルやトカゲも食べた例もある[5]。下北半島の個体群は食物が少ない時期に樹皮、海藻、貝類なども食べる。春季は花や若葉、夏季は漿果、春季から冬季にかけては果実や種子を食べる[7]。 捕食者としてクマタカが挙げられる[11]。
肉食の報告例として2015年には北アルプスでライチョウの幼鳥を捕食している姿が観察されている[12]。
繁殖様式は胎生。主に秋季から冬季にかけて交尾を行う[5][4][7]。妊娠期間は161 - 186日[7]。この時期以外にメスが発情することは少なく、月経もまれ(月経があっても無排卵月経)[5]。春季から夏季に1回に1頭(まれに2頭)の幼獣をに1回産む[4]。出産間隔は2 - 3年だが[4]、栄養状態によってはより長くなることもある[8]。授乳期間は11 - 18か月[7]。メスは生後5 - 7年で性成熟する[4][8]。野生下での寿命は主に25年以下(幼獣の死亡率が高い)だが[4]、一方で餌付けされた個体群では30年以上の生存が推定されている個体や生後26年で出産した例もある[7]。
幸島の個体群では、餌のサツマイモを海水で洗って食べる行動が報告されている[5][8]。群れの他のものにもそれをまねするものが現れた。海水で洗い、食べるごとに海水に浸し味付けをするらしい行動をする個体もいる[5]。砂浜に撒かれた麦を、砂ごと抱えて海水に放り込み、波に洗われた麦粒を拾って食べる個体も確認されている[5]。比較的若い個体がこうした行為を行い、成長しその個体と血縁関係がある個体を中心に同様の行動を行う傾向がある[5]。一方でこうした行動が「模倣による伝搬」なのか「他の個体の行為を見て刺激を受け、試行錯誤し結果的に同じ行動を行う」のか慎重に検討すべきだとする意見もある[5]。
さらに魚を捕らえるものまで出てきた。これらの行動はサルの文化的行動として注目を受け、動物にも文化を認める論の先駆けとなった。ちなみに、最初にイモ洗いを行った若いメスの名はイモと名付けられた。このエピソードは中学校の国語の教科書でも紹介された。こうした「餌を海水に浸す」文化は若いメスザルにより始まったものの、その伝播は序列に従い、まずは若いオスザル、次に年取ったメスザル、そして最後にボスザルが真似を始める。人間社会と同様、ボスは権威を維持するために、若いメスザルによって発祥した文化を容易に模倣することが出来ないといわれる[要出典]。
以前は、強力な統率力をもつボスザルとそれを取巻くメス、子供を中心として、他のオスは周辺部に位置し中心部に入ることが許されないという「同心円二重構造」として群れの社会構造が説明されていた。なお、「ボスザル」という呼称は後に「リーダー」などと呼び変えられた。
ニホンザルの社会の仕組みについては、以下のようなものと考えられていた。
しかし、伊沢紘生らによる白山にすむ野生群などの研究ではボスザルの存在は認められず、群れは「仲間意識」によって支えられた集団であるとしている。群れ内に「ボス」や「決まった順位」があると見えるのは、人間による餌付け(決められた場所、時間、量のサツマイモや大豆などの給餌による飼いならし)という餌の独り占めが現れやすい特殊な状態下だからだ、という見解である。また「順位制」という「制度」的なものがサルの社会にあるかのような表現も再考されるべきであるとしている。
なお、欧米諸国ではサル類が生息しないため、いわゆる先進諸国で野生のサル類が国内に生息する日本とニホンザルは特別視されてきた。ニホンザルのことを英語で Snow Monkey と呼ぶのは、サルが熱帯の動物と考えられていたためである。
1947年以降の狩猟獣からの除外、農村の衰退などにより本種による農作物の被害(猿害)が、主に1970年代から増加している[8]。後述する天然記念物のうち幸島、高崎山、臥牛山、箕面山、下北半島では餌付けが行われたが、個体数増加に伴い周辺地域での人間に対する直接的な被害も含めた猿害も発生している[9]。そのため給餌量制限、電気柵の設置、追い上げ作業などの対策が進められている[9]。有害鳥獣として駆除されることもあり[9]、1996年における駆除数は約10,000頭と推定されている[8]。
1952年に京都大学によって幸島で生態研究を目的とした餌付けが行われた[9]。なお、日本のサル学の発祥の地は「高崎山自然動物園」のある高崎山(大分県)ともいわれる[13]。
広葉樹林林伐採や針葉樹植林による生息地の破壊、害獣としての駆除による影響が懸念されている[8]。人為的に移入されたアカゲザル(千葉県館山市や南房総市)やタイワンザル(青森県野辺地町や和歌山県)との交雑による遺伝子汚染も懸念され、青森県(放獣されていた飼育個体)や千葉県、和歌山県では赤血球酵素の電気泳動法やミトコンドリアDNAの塩基配列などによる検査から種間雑種と思われる個体が発見されている[14][15][16]。 1977年に霊長目単位でワシントン附属書IIに掲載されている[2]。日本では1934年に幸島が「幸島サル生息地」、1953年に高崎山が「高崎山のサル生息地」、1956年に臥牛山、高宕山を中心にした丘陵、箕面山がそれぞれ「臥牛山のサル生息地」「高宕山のサル生息地」、「箕面山のサル生息地」、1970年に下北半島北西部および南西部の個体群およびその生息地が「下北半島のサルおよびサル生息地」として国の天然記念物に指定されている[9]。
日本ではマカカ属(マカク属)単位で特定動物に指定されている(特定外来生物に指定されているアカゲザル・カニクイザル・タイワンザルを除く)[18]。
日本語「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名であった。 異称は「ましら」で、和歌などでは盛んに使われる。南方熊楠によればこれは梵語に由来するものかという[19]。
また俗に「エテ公」などとも言うが、これは一種の忌み言葉で、猿が「去る」に通じるのを避けて「得手」と呼んだことが起源とされる[20]。 南方がかつて熊野川を船で下ったとき、船頭は猿を「野猿(やえん)」「エテ吉」と呼び、決して「猿」の名を口にはしなかったという[19]。
いっぽうで、続日本紀に見える柿本朝臣佐留、歌人の猿丸大夫、上杉謙信の幼名「猿松」、前田利常の幼名「お猿」など、日本人の名には「猿」を戴くものもあるのだが、南方によればこれは、古く猿をトーテムとする家族が多かった名残であろうという[19]。
猿は古来“山神”とされた[21][22]。 猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのも自然な成り行きであった[22]。
南方によれば、田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったのだという[22]。 また日吉信仰はおそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかという[19][22]。 中村禎里によれば、猿神が日本土着の起源をもつことは、これが日吉系の各社にかぎらず浅間など各地で山神信仰と結びついていることからも明らか[22]だが、そうした山神としての猿信仰が、仏教とともに流入したインドの土俗神とおそらく習合し、さらに「日吉」「庚申様」「馬頭観音」「猿田彦」などの猿と関連づけられた“看板”を獲得しながら普及する中で、後世の日本人の信仰が形づくられてきたのだという[22]。 なお、再度南方によれば、日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛とは、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神が日本で転化したものであり、青面金剛の足元にたびたび描かれる三匹の猿、「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿は、ラーマに仕えたハヌマーンの変形に他ならない[19][22]。 とはいえ当然ながら、日本の信仰に表れる三猿は、まぎれもなく尻尾の短いニホンザルである。
日本には古来、猿は馬を守る守護者であるとする伝承があった。 たとえば「猿は馬の病気を防ぐ」として、大名屋敷などでは厩において猿を舞わせる習慣があった[23]が、こうした猿の舞を生業とする猿曳き(後の猿回し)は、柳田國男によれば、元来“馬医”をも生業に兼ねていた[22]。
柳田はまた「厩猿(まやざる)」と呼ばれる習俗を紹介している。 これは東北地方に見られる風習で、馬(や牛)の健康、安産、厩の火除けなどを願って猿の頭蓋骨や手、あるいは絵札などを厩に飾るもの[24]。柳田によればこれは非常に古い伝統で、元来は実物の猿を厩につないでいたものだった[25]。厩に猿を飼う風習は古く『梁塵秘抄』や『古今著聞集』にも例があり[25]、また類似の習俗は中国やタイにもあったという[25]。
洛中洛外図屏風(16世紀)に描かれた猿曳きと猿。
同じく青面金剛。こちらの懸画では猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿になっている。
有名な“日光の三猿”。実はこのレリーフがあるのは「神厩舎」と呼ばれる厩舎であり、「猿が馬を守る」という民間信仰はここにも反映している。
ニホンザルは比較的身近な生き物であったことから、大衆文化にもよく登場する。 『靱猿』(うつぼざる)は狂言の曲で、毛皮で靫をこしらえるために猿をほしがる大名と猿曳き、そして子役の演じる猿が登場する著名な演目だが、猿自身が主役となる『猿聟』のような曲も狂言にはある。 『桃太郎』『さるかに合戦』などの有名な説話においても猿は重要な役割を演じている。 ほかにも川柳におもしろおかしく詠まれたり、身近な日用品などのモチーフとしても、猿の意匠はさまざまに使われてきた。
猿の尻木枯らししらぬ紅葉かな (犬筑波集)
「(悪事を)見ざる、言わざる、聞かざる」を象徴するとされるいわゆる「三猿」は、前述のとおり庚申信仰との関わりが深いが、もとは論語の教えや天台宗の教義が日本国内において猿と結びついたものかという。 左甚五郎作と伝える日光東照宮のレリーフが世界的によく知られており、現在では三猿のモチーフは世界各国で見られるようになっている。