Pyrethrum cinerariifolium Trevir.
英名 Dalmatian chrysanthemumシロバナムシヨケギク(白花虫除菊、学名:Tanacetum cinerariifolium)は、キク科の多年草。除虫菊という名前でも知られる。
胚珠の部分にピレスロイド(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。地中海沿岸原産であり、セルビアで発見された。かつて国内の主産地だった広島県因島市(現尾道市)の市花。開花時期には島の斜面が美しい白い花で埋まった[1]。
大日本除虫菊(金鳥)の創始者上山英一郎がこの除虫菊を使って、渦巻型の蚊取線香を発明した。
花の見頃は、5月頃。
日本への渡来は1886年(明治19年)であり、はじめは、博物学者田中芳男送付の種子を東京衛生試験所薬草園で栽培採種し、これを播種し、1888年(明治21年)5月に初めて製粉、効果をハエやノミに試み、良結果を得た。よって同一種子を農商課植物園で試作し、一部を和歌山県内の集産場で栽培した。
農務局のものは熊本県にも送付され、特に和歌山県で営利的成功をおさめた。一方、1888年に大阪の清水多三郎が除虫菊粉の取引をしていた関係上、神戸のモルフ商会から種子を取り寄せ、播種したが、わずかに観賞用にとどまった。また一方、当時和歌山県でみかん農園を運営していた上山英一郎が、種子交換によりアメリカから得た種子を播種、最初は観賞用として栽培していたが、後にこの菊に殺虫成分が含まれるのを知り、殺虫剤として接種・栽培に取り組み、他県にも種子を分けて製粉を試みると共に、上山が製造した蚊取り線香が大いに売れたことで、後に金鳥を設立することとなると共に、除虫菊界の恩人とも呼ばれることになる。日本で栽培された当時は、輸入品に圧倒されていたが、国内での栽培量も安定し始め、1898年(明治31年)には対米輸出を開始、第一次世界大戦以降には、除虫菊の世界的な生産地となった。
花の七分から八分開いたものを順次、数回にわけて採集するのが理想的であるが、労力の関係上、咲きそろった時に採集することが多い。採集作業は花序を人差し指と中指との間にはさんで摘み取り、労力の少ない場合は大多数の花の開いた株を選んで根際から刈り取る。蚕棚のような棚を作って筵(むしろ)を敷き、薄く花を散布し、陰干しにする。大規模の場合は蚕棚式またはベルトコンベヤー式の火力乾燥機を用いる。乾燥させたものはブリキ缶その他の防湿器物に容れて貯蔵する。貯蔵しておいた乾花を適宜取り出し、焙炉で十分に乾燥させたのち搗(つき)臼、石臼または薬研その他で粉砕する。大規模の場合は水力、電力による並列した搗臼を用いる。粉末は篩分して製品とし、残殻は再び粉砕する。
二つの世界大戦の戦間期の日本の主産地として和歌山、愛媛、香川、岡山、北海道、広島があった。特に瀬戸内海沿岸各地の段々畑で多く栽培されており、特に因島や小豆島では耕地面積の多数を占めていた[1]。第二次世界大戦中までは日本が世界一の生産国であった。しかし、戦後は食料増産が必要となり栽培面積が激減し、また殺虫剤としてピレトリン類似化合物のピレスロイドが使われるようになると、ケニアなどでは殺虫剤の原料として栽培されてはいるものの、日本では産業用としての栽培は行われなくなった。
現在では、かつて主産地のひとつであった因島で観光用にシロバナムシヨケギクの栽培が行われている[1]。
シロバナムシヨケギク(白花虫除菊、学名:Tanacetum cinerariifolium)は、キク科の多年草。除虫菊という名前でも知られる。
胚珠の部分にピレスロイド(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。地中海沿岸原産であり、セルビアで発見された。かつて国内の主産地だった広島県因島市(現尾道市)の市花。開花時期には島の斜面が美しい白い花で埋まった。
大日本除虫菊(金鳥)の創始者上山英一郎がこの除虫菊を使って、渦巻型の蚊取線香を発明した。
花の見頃は、5月頃。